大浴場での転倒事故裁判

旭川地判平成30年11月29日判時2418号108頁

ア 事案の概要
 当時85歳の女性が、温泉施設を利用していたところ、脱衣場から通路を通って浴場に足を踏み入れた際に、足を滑らせて転倒したというものです。浴場の入口付近には、約8cmの段差があり、段差の浴場側部分には滑り止めのゴムマットが敷かれていませんでした。
 女性側は、転倒事故が発生したのは、施設側に安全配慮義務違反があったためであるとして、施設に対して、不法行為に基づく損害賠償請求をしました。

イ 判旨(抜粋)
 「浴場は、人が体を洗ったり、お風呂に入ったりする場所であるので、その入口付近では、体を洗った際の石鹸水等が流れ込んでくることもあれば、浴場と脱衣所の間の通路のバスマットは、浴場から出て来た人の体に付着した水分を吸い込むことで濡れていることがあると思われるが、浴場施設の利用者としてはそういったことがあることを想定し、転倒しないように注意して行動すべきであって」「被告に、本件浴場入口部分にある段差の浴場側にゴムマットを敷いたりする義務があったとはいえない。」
 「被告は、本件転倒事故以前から、本件浴場入口側のスライドドアの右側ガラス戸に「浴場内は、スベリますので、ご注意願います。」という横書きの掲示板を、掲示していたことが認められる。そうすると、被告は浴場が滑りやすいことを注意しており、その点に関して、被告には注意義務違反はない。」
 「以上によれば,本件転倒事故につき,被告に安全配慮義務違反があったとは認められない。」

第2 若干の考察

1 土地工作物責任について

 土地工作物責任における、設置又は保存に瑕疵があったとみられるかどうかは、当該工作物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきものとされています(最判昭和53年7月4日民集32巻5号809頁(国賠法上の営造物責任についての判示))。
 上記3つの裁判例のうち、土地工作物責任の主張が出されていたのは⑴盛岡地判と⑵東京地判ですが、いずれも施設側の土地工作物責任を否定しています。その際に考慮していたポイントを抽出するとすれば、①床の材質・状態が滑りやすいか、②防滑対策として何が行われていたか(床の加工や手すりの設置など)、③掃除がどのくらいの頻度で行われていたか、④過去に転倒事故が起きているか、という点が挙げられます。この中でも、やはり工作物そのものの危険性に関わる①、②の事情を重要視することになろうと思われます。いずれの裁判例も、階段での転倒事故が問題とされていますが、いずれも床面の材質や防滑対策が温浴施設では一般的なものであることに言及しています。
 一方で、床面がかなり特殊な素材を使用していて、一般的な素材よりもはるかに滑りやすいというような事情があれば、当然土地工作物責任を肯定する方向に傾きます。土地工作物責任が問題となった場合には、まず転倒場所の床面が、一般的な温浴施設と比較してどれほど滑りやすいのかという点を検討する必要があろうと思われます。

2 安全配慮義務について

 不法行為と構成するか債務不履行と構成するかはここでは触れませんが、いずれの裁判例においても安全配慮義務違反の主張が出されています。ここでも、裁判例で考慮されているポイントを挙げるとすれば、①床の材質・状態が滑りやすいか、⑤階段など転倒場所が転倒を誘発しやすいか、⑥床が滑りやすいことの注意喚起の有無、⑦水が濡れやすい場所・溜まりやすい場所だったか、⑧構造上客が度々移動することが予定されていたか、⑨被害者の直前の行動、という点が挙げられます。
 温浴施設によっては、湯船近くには防滑対策をしているが、その他の場所にはしていないなど、全面的に防滑対策をしていないところがあります。そうすると、利用客にとっては、滑りにくい床だと信じて油断していると急に滑りやすい場所が現れて転倒してしまうという危険が生じることもあります。この場合、全面的に滑りにくい材質の床に張り替える対策をとるのが無難ですが、コストの問題から現実的でないことが多いです。そのため、このような施設においては、特に滑りやすい箇所に注意喚起の掲示をする、多くの来場客の動線となる場所については水濡れ対策として掃除を頻繁にする、階段付近には上り下りをする人の手の届く範囲に手すりを設置しておくなど、可能な限りの対応をとっておくことが、のちの紛争に備えた対策となると思われます。

3 まとめ

 いずれにしても、諸般の事情を考慮して決することになりますので、一概にこれをやっていれば責任を免れられるというものではないですが、責任を肯定した盛岡地判の判示内容を参考にして、可能な限りの転倒防止対策を講じておくことが肝心です。